2016/06/15

大きな事件が起きたときに分かること

悲しい事件が起きたことを知り、夜中になってもネットで配信されているニュースを追っかけていた。なかなか寝付けない。カムアウトしているノンケの友達とLINEでメッセージを送りあった。彼はとてもいいやつだが、俺のこの複雑な悲しみは理解できない。(それは彼の責任ではない。)

誰かと話したかった。が、今の自分にはそんな話ができる友達が一人もいないことに気付いた。それで、誰かと話すかわりに、ネットでこの事件を話題にしているツイッターアカウントを覗いたりした。この事件を悲しんでいるアカウントを覗き、共感し、自分も同じ悲しみに浸りたかった。一種の代替行為だ。

そんな時、分かることがある。

性的少数者の問題は、ややこしい。当事者である自分でさえ、そう思う。当事者がみんな違うことを言う。連帯や共闘ができない。特にここ日本では。例えば、選挙でも投票する相手がみんな違う。

なぜか。

答えはないが、ひとつ推測できるのは、個々人が経験してきたこと、それへの対処法、またそれらによって身についた価値観がバラバラであることだ。みんな、「自分なり」にやり過ごしてきたのだ。

今まではそれで何とかなったんだろう。けれども、これから先もそうだろうか?(待てよ、今までも「何とかならなかった」ことってあったんじゃないだろうか?)

今回のような大きな事件が起こると、それへのリアクションで、一人ひとりのもつ価値観が炙りだされる。足の引っ張り合いさえ起こってしまう。「あいつは何てことを言うんだ」とか。

そういうのも、よく見ておこうと思う。悲しくても。


追記: 事件の犠牲者やその家族への募金を募っているところを見つけました。下記のリンク先から可能です。どうぞご検討ください。
https://www.gofundme.com/PulseVictimsFund

2016/05/18

テラ・ヌリウス:ナショナリストになる方法


昨日、いわゆる尖閣諸島に関するドキュメンタリー映画を観ました。
日本中国台湾、各国のナショナリストたちが尖閣諸島にアプローチするさまを撮影。監督は彼らの船に乗り、一緒に尖閣諸島を目指します。つまり、監督は計3回も船で尖閣諸島へ赴いていることになります。監督は船酔いするひとらしいのに頑張った。

この79分の映画を観て、私は何か分かったか? いいえ、分からなかった。
監督は何を伝えたかったのだろうか? さあ、分からない。

この映画が上映されたのと同じ建物で、現代美術の展覧会がありました。予定より早く会場に着いたので、上映前の空き時間でその展覧会を見てまわりました(無料だったし)。物体が置いてあり、プロジェクターやテレビが何かの映像を流していた。でも、もってまわったような思わせぶりや、意味ありげな目配せはない。何かしらの主張らしきものもない。ただ、モノがあって、映像があるだけ。ずいぶん素っ気ないなーと思ったけれども。

もうそういう事になってきたのかな、とも思った。
即物的な時代。おそらく、コンセプトすらもう必要ないのだ。装飾を排すのではなく、最初から装飾する気がない。彼等は云うだろう、「なんで?」と。「なんでそんなもんが必要なの?」さあ、私にも分からない。
分からせてくれるものが欲しければ、週刊誌や新書を買えばいい。賛同が欲しければSNSを覗けばいいし、カタルシスを得たければハリウッド映画でも見たらいい。それはそうだ。そうなんだけれども。

ということで、今の時代、ドキュメンタリーにも期待しすぎてはいけない。わかりやすく結論を導いてくれるドキュメンタリーも、撮影者の主張に沿う形にズタズタに編集された「ドキュメンタリー」 も、もういらないってことですかね。昨日観た映画はそんなんではなかったので、その旨皆様に報告します。自分の頭で考えろってことですね。


↑なんかおどろおどろしい音楽がついてるけど、本篇は淡々としていました。

2016/05/14

Mike Kelley "Day Is Done"


イメージフォーラム・フェスティバルで上映があったので、観てきました。面白いのに眠気に襲われるというおかしな体験。チャカチャカチャカ、フーーフー。素材集から取ってきたような音が気になっチャカチャカチャカ、フーーフー。もうそういう時代なのだよねと今更感慨にふける。チャカチャカチャカ、フーーフー。芸術作品といえど音をイチから手作りとかしないんだよねー効率って大事だもんねっていうあたりなんかアメリカっぽいのかなぁなどと、あチャカチャカチャカ、フーーフー。